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第5話 百夜の呪い

Author: 天咲琴乃
last update publish date: 2026-09-27 12:15:51

「百夜目まで、生きた花嫁はいない」

鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。

雪乃は朔夜を見つめた。

いつもと変わらない顔。

静かな金色の瞳。

だからこそ、怖かった。

「……朔夜」

返事はない。

「嘘だって言って」

小雪が雪乃の袖を握る。

朔夜は、ゆっくり目を伏せた。

「嘘ではない」

雪乃の胸が冷えた。

「じゃあ、本当なの?」

「ああ」

「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」

「正確には違う」

鷹司が鼻で笑った。

「大差あるまい」

朔夜の視線が鷹司へ向く。

「黙れ」

声は低かった。

怒鳴ったわけではない。

それなのに、空気が凍ったように感じた。

鷹司も笑みを消す。

雪乃は立ち上がった。

「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」

朔夜を見る。

「説明して」

「ああ」

「最初から全部」

「分かった」

朔夜は座り直した。

雪乃も、その正面へ座る。

小雪は姉の隣から離れなかった。

鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。

朔夜が口を開いた。

「九尾の一族には、古い契りがある」

「契り?」

「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」

雪乃は黙って聞いた。

「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」

小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。

「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」

「必ず死ぬわけではない」

朔夜が言った。

「助かる方法はある」

鷹司が薄く笑う。

「成功した者はいないがな」

「鷹司さま!」

小雪が睨んだ。

蓮が眉を上げる。

「何だ」

「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」

「事実を言っただけだ」

「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」

「怖いなら嫁がなければいい」

「それはそうですけど」

小雪は少し考えてから、

「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」

と言った。

「…………」

蓮の眉間に皺が寄る。

「おまえにだけは言われたくない」

「どうしてですか?」

「もういい」

「そうですか」

小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。

蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。

雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。

だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。

「助かる方法って?」

「人としての生を捨てる」

「……え?」

「妖の血を受け入れ、人でも妖でもない存在になる」

「半妖……?」

「ああ」

雪乃は息を呑んだ。

自分が。

人ではなくなる。

「それができれば、妖の領域でも生きられる?」

「理屈ではな」

「理屈では、って……」

「成功例がない」

鷹司が答えた。

雪乃は睨んだ。

「あなたには聞いてない」

「そうか」

鷹司は平然としている。

その隣で、小雪が首を傾げた。

「鷹司さまって、お姉ちゃんには嫌われてるんですね」

「……おまえは少し黙っていろ」

「はい」

また素直に黙る。

蓮が額を押さえた。

雪乃は気を取り直した。

「朔夜」

「なんだ」

「どうして、昨日それを言わなかったの?」

初めて、朔夜が少し長く沈黙した。

雪乃の胸が締めつけられる。

「まさか、黙ったままあたしを嫁にするつもりだった?」

「違う」

即答だった。

「なら、どうして?」

「昨日のおまえに必要だったのは、小雪が生きているという事実だ」

雪乃は目を瞬く。

「そして今日、おまえを小雪に会わせるつもりだった」

「そのあと?」

「すべて話すつもりだった」

「……本当に?」

「ああ」

朔夜の目は逸れなかった。

「身請けと婚姻は別だ」

雪乃が眉を寄せる。

「別?」

「おまえを花霞楼から出すのは恩返しだ」

朔夜は淡々と言った。

「嫁に欲しいのは、俺の勝手な望みだ」

「…………」

雪乃の胸が鳴る。

朔夜は続けた。

「だから、おまえが断るなら、それでいい」

「でも身請けはするの?」

「ああ」

「そのあと、あたしが小雪と暮らしたいって言ったら?」

「そうすればいい」

「ほかの男と結婚したら?」

ほんの一瞬。

朔夜の目が細くなった。

「……それは面白くない」

雪乃は思わず吹き出した。

「何それ」

「だが、おまえが決めたことなら止めない」

「本当に?」

「ああ」

「絶対?」

「しつこいな」

「だって、あなた昨日から勝手なんだもの!」

「身請けについては認める」

「そこは認めるのね」

「だが、おまえを買うつもりはない」

朔夜は雪乃をまっすぐ見た。

「自由にする」

雪乃の笑みが消えた。

その言葉は、不思議なほど胸の奥へ入ってきた。

自由。

自分には縁のない言葉だと思っていた。

家の借金ができた。

小雪が売られそうになった。

だから、自分が代わった。

花霞楼では、客に求められる雪乃を演じた。

それが嫌だったわけではない。

自分で選んだことだ。

けれど。

選べる道が、それしかなかったのも事実だった。

「……あたし」

雪乃は自分の手を見る。

「自由になったら、何をしたらいいんだろう」

小雪が姉の手を握った。

「好きなことすればいいんだよ」

「好きなこと?」

「うん」

小雪は笑う。

「お姉ちゃん、ずっとあたしのために生きてきたでしょう?」

雪乃は言葉を失った。

「これからは、お姉ちゃんが幸せになって」

「……小雪」

「あたし、もう一人でご飯も作れるよ」

「そこ!?」

「洗濯だってできるし」

「本当に?」

「……だいたい」

「小雪」

「できるもん!」

雪乃は思わず妹を抱きしめた。

「ああもう、かわいい!」

「お姉ちゃん苦しい!」

「こんなかわいい子を一人にできるわけないでしょう!」

「子どもじゃないってば!」

その様子を、朔夜が静かに見ている。

雪乃は気づいて顔を上げた。

「何よ」

「いや」

「また笑ってる?」

「笑っていない」

「絶対笑ってる」

朔夜は答えず、茶を飲んだ。

鷹司が呆れたように息を吐く。

「くだらん」

小雪が振り向いた。

「鷹司さまも、家族と仲良くすればいいのに」

「余計なお世話だ」

「ご家族と仲悪いんですか?」

「…………」

「寂しいんですね」

「違う」

「そうなんですね」

「その顔をやめろ」

「どの顔ですか?」

「全部だ」

「ええ……」

小雪が困った顔をする。

鷹司はさらに苛立ったように顔を背けた。

雪乃は二人を見て、眉を寄せる。

「小雪」

「なあに?」

「あの男にあんまり近づいちゃ駄目よ」

「どうして?」

「悪代官だから」

「本人の前で言うな」

蓮の声が飛ぶ。

「事実でしょう」

「……覚えていろ、雪乃」

「何を?」

「いつかその減らず口を――」

朔夜が蓮を見る。

蓮は言葉を止めた。

「……何だ」

「雪乃に触れるな」

「触れていない」

「ならいい」

「貴様とは本当に話が合わんな」

「合う必要がない」

雪乃はため息をついた。

「男って、どうしてこうなの」

小雪が小さく笑った。

「でも、お姉ちゃん」

「何?」

「黒羽さま、お姉ちゃんのことすごく好きだよね」

「またその話!?」

「だって」

小雪が朔夜を見る。

「百夜の呪いがあるのに、それでもお姉ちゃんを嫁にしたいんでしょう?」

雪乃も朔夜を見る。

朔夜は、少しも迷わなかった。

「ああ」

「……どうして?」

今度は雪乃が聞いた。

「恩返しだから?」

朔夜は首を横に振った。

雪乃の心臓が跳ねる。

「じゃあ、何?」

「昔から見ていたと言っただろう」

「あたしを?」

「ああ」

「それだけじゃ分からない」

朔夜はしばらく雪乃を見つめた。

「最初は恩を返すつもりだった」

静かな声。

「だが、おまえが妹を守るために花霞楼へ入ったと知った」

雪乃は黙る。

「客の前で笑っているところも見た」

「……見てたの?」

「ああ」

「嫌な趣味ね」

「そうかもしれん」

朔夜は気にした様子もない。

「それでも、おまえは誰かの悪口を言わなかった。小雪への金を欠かさなかった。自分のことは後回しにした」

「…………」

「いつの間にか、恩を返すだけでは足りなくなった」

雪乃の頬が熱くなる。

小雪が隣で、嬉しそうに姉を見る。

「朔夜」

「なんだ」

「それって……」

聞くのが怖い。

でも。

聞きたい。

「……あたしのこと、好きなの?」

朔夜は瞬きすらしなかった。

「好きだ」

雪乃の顔が一気に熱くなる。

「ちょっとは迷いなさいよ!」

「なぜだ」

「普通は照れたりするでしょう!」

「好きなものを好きと言って、何を照れる」

「そういうところよ!」

小雪が声を上げて笑った。

鷹司は呆れた顔をしている。

「馬鹿馬鹿しい」

だが雪乃には、もう蓮の声など聞こえていなかった。

朔夜を見つめる。

この男は。

千年を生きる九尾の妖狐。

自分が子どもの頃に助けた白狐。

百夜目には、自分を死なせるかもしれない男。

それなのに。

なぜだろう。

怖いはずなのに、胸の奥が熱い。

「……あたしは、まだ嫁になるって言ってないからね」

「ああ」

「勘違いしないで」

「していない」

「まず花霞楼を出るかどうかも、あたしが決める」

「そうしろ」

「小雪のこともあるし」

「ああ」

「それから……」

雪乃は言葉に詰まった。

朔夜が待っている。

急かさない。

「……あなたのことも、もっと知らないと決められない」

朔夜はわずかに目を細めた。

「では、知ればいい」

「簡単に言うわね」

「難しくする必要があるか?」

雪乃は笑った。

「本当に変な男」

「よく言われる」

「誰に?」

「おまえに」

「今しか言ってないでしょう!」

小雪がまた笑う。

その瞬間。

屋敷の外から、鐘の音が聞こえた。

雪乃は窓の外を見る。

日が傾き始めている。

「……戻らなきゃ」

小雪の顔が曇る。

「お姉ちゃん」

雪乃は妹の頭を撫でた。

「大丈夫。もう会えないわけじゃないでしょう?」

「うん」

「明日も来るから」

朔夜が口を開く。

「明日は花霞楼へ行く」

「何しに?」

「身請けの話を終わらせる」

雪乃の目が大きくなる。

「まだ決めてないって言ったでしょう!」

「だから、おまえも来い」

「……あたしも?」

「ああ」

朔夜は立ち上がった。

「自分の値段くらい、自分で聞いておけ」

雪乃は一瞬黙ったあと、笑った。

「それ、花魁に言う言葉?」

「事実だろう」

「ほんっと、色気がない!」

「必要か?」

「少しくらいは必要よ!」

「そうか」

朔夜は少し考える。

そして。

雪乃の耳元へ顔を寄せた。

近い。

金色の瞳が、すぐそばにある。

「なら」

低い声が落ちた。

「明日、おまえを迎えに行く」

雪乃の身体が固まる。

「……っ」

朔夜は何事もなかったように離れた。

「これでいいか」

雪乃は真っ赤になった。

「わざとでしょう!」

「何がだ」

「もう知らない!」

雪乃が背を向ける。

小雪が笑いを堪えている。

朔夜の表情は、最後まで変わらない。

ただ。

その白い袖の陰で。

雪乃には見えない一本の尾だけが、ゆっくりと揺れていた。

その夜。

花霞楼へ戻った雪乃は、女将から一枚の書付を渡された。

「……これは?」

「おまえの借金の証文だよ」

雪乃は目を見開いた。

「どうして、あたしに?」

女将の表情は険しい。

「明日、黒羽さまが来るんだろう」

「……はい」

「だったら、その前に知っておいたほうがいい」

雪乃は紙を開く。

そして、息を止めた。

借金の額。

これまで自分が返した金。

帳簿上なら、とっくに完済しているはずだった。

しかし、その下に。

雪乃の知らない文字が書き加えられていた。

追加借入。

保証人――鷹司蓮。

「……何、これ」

女将が低い声で言った。

「おまえはまだ、花霞楼を出られない」

雪乃の手が震える。

「鷹司さまが今日、証文を書き換えた」

「そんな……勝手に」

「できるんだよ」

女将は唇を噛んだ。

「この町では、あの男が法だからね」

雪乃は証文を握りしめた。

昼間の鷹司の顔が浮かぶ。

『迎えに行く』

あれは、小雪のことではなかった。

雪乃も。

最初から、逃がすつもりなどなかったのだ。

そのとき。

庭の向こうで、白い影が動いた。

一匹の狐。

金色の目。

雪乃が窓を開ける。

白狐はじっと彼女を見たあと、闇の中へ消えた。

雪乃は証文を胸元で握りしめる。

「……朔夜」

明日。

あの男が、自分を迎えに来る。

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