LOGIN「百夜目まで、生きた花嫁はいない」
鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。 雪乃は朔夜を見つめた。 いつもと変わらない顔。 静かな金色の瞳。 だからこそ、怖かった。 「……朔夜」 返事はない。 「嘘だって言って」 小雪が雪乃の袖を握る。 朔夜は、ゆっくり目を伏せた。 「嘘ではない」 雪乃の胸が冷えた。 「じゃあ、本当なの?」 「ああ」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」 「正確には違う」 鷹司が鼻で笑った。 「大差あるまい」 朔夜の視線が鷹司へ向く。 「黙れ」 声は低かった。 怒鳴ったわけではない。 それなのに、空気が凍ったように感じた。 鷹司も笑みを消す。 雪乃は立ち上がった。 「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」 朔夜を見る。 「説明して」 「ああ」 「最初から全部」 「分かった」 朔夜は座り直した。 雪乃も、その正面へ座る。 小雪は姉の隣から離れなかった。 鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。 朔夜が口を開いた。 「九尾の一族には、古い契りがある」 「契り?」 「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」 雪乃は黙って聞いた。 「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」 小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。 「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」 「必ず死ぬわけではない」 朔夜が言った。 「助かる方法はある」 鷹司が薄く笑う。 「成功した者はいないがな」 「鷹司さま!」 小雪が睨んだ。 蓮が眉を上げる。 「何だ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「事実を言っただけだ」 「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」 「怖いなら嫁がなければいい」 「それはそうですけど」 小雪は少し考えてから、 「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」 と言った。 「…………」 蓮の眉間に皺が寄る。 「おまえにだけは言われたくない」 「どうしてですか?」 「もういい」 「そうですか」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。 蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。 雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。 だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。 「助かる方法って?」 「人としての生を捨てる」 「……え?」 「妖の血を受け入れ、人でも妖でもない存在になる」 「半妖……?」 「ああ」 雪乃は息を呑んだ。 自分が。 人ではなくなる。 「それができれば、妖の領域でも生きられる?」 「理屈ではな」 「理屈では、って……」 「成功例がない」 鷹司が答えた。 雪乃は睨んだ。 「あなたには聞いてない」 「そうか」 鷹司は平然としている。 その隣で、小雪が首を傾げた。 「鷹司さまって、お姉ちゃんには嫌われてるんですね」 「……おまえは少し黙っていろ」 「はい」 また素直に黙る。 蓮が額を押さえた。 雪乃は気を取り直した。 「朔夜」 「なんだ」 「どうして、昨日それを言わなかったの?」 初めて、朔夜が少し長く沈黙した。 雪乃の胸が締めつけられる。 「まさか、黙ったままあたしを嫁にするつもりだった?」 「違う」 即答だった。 「なら、どうして?」 「昨日のおまえに必要だったのは、小雪が生きているという事実だ」 雪乃は目を瞬く。 「そして今日、おまえを小雪に会わせるつもりだった」 「そのあと?」 「すべて話すつもりだった」 「……本当に?」 「ああ」 朔夜の目は逸れなかった。 「身請けと婚姻は別だ」 雪乃が眉を寄せる。 「別?」 「おまえを花霞楼から出すのは恩返しだ」 朔夜は淡々と言った。 「嫁に欲しいのは、俺の勝手な望みだ」 「…………」 雪乃の胸が鳴る。 朔夜は続けた。 「だから、おまえが断るなら、それでいい」 「でも身請けはするの?」 「ああ」 「そのあと、あたしが小雪と暮らしたいって言ったら?」 「そうすればいい」 「ほかの男と結婚したら?」 ほんの一瞬。 朔夜の目が細くなった。 「……それは面白くない」 雪乃は思わず吹き出した。 「何それ」 「だが、おまえが決めたことなら止めない」 「本当に?」 「ああ」 「絶対?」 「しつこいな」 「だって、あなた昨日から勝手なんだもの!」 「身請けについては認める」 「そこは認めるのね」 「だが、おまえを買うつもりはない」 朔夜は雪乃をまっすぐ見た。 「自由にする」 雪乃の笑みが消えた。 その言葉は、不思議なほど胸の奥へ入ってきた。 自由。 自分には縁のない言葉だと思っていた。 家の借金ができた。 小雪が売られそうになった。 だから、自分が代わった。 花霞楼では、客に求められる雪乃を演じた。 それが嫌だったわけではない。 自分で選んだことだ。 けれど。 選べる道が、それしかなかったのも事実だった。 「……あたし」 雪乃は自分の手を見る。 「自由になったら、何をしたらいいんだろう」 小雪が姉の手を握った。 「好きなことすればいいんだよ」 「好きなこと?」 「うん」 小雪は笑う。 「お姉ちゃん、ずっとあたしのために生きてきたでしょう?」 雪乃は言葉を失った。 「これからは、お姉ちゃんが幸せになって」 「……小雪」 「あたし、もう一人でご飯も作れるよ」 「そこ!?」 「洗濯だってできるし」 「本当に?」 「……だいたい」 「小雪」 「できるもん!」 雪乃は思わず妹を抱きしめた。 「ああもう、かわいい!」 「お姉ちゃん苦しい!」 「こんなかわいい子を一人にできるわけないでしょう!」 「子どもじゃないってば!」 その様子を、朔夜が静かに見ている。 雪乃は気づいて顔を上げた。 「何よ」 「いや」 「また笑ってる?」 「笑っていない」 「絶対笑ってる」 朔夜は答えず、茶を飲んだ。 鷹司が呆れたように息を吐く。 「くだらん」 小雪が振り向いた。 「鷹司さまも、家族と仲良くすればいいのに」 「余計なお世話だ」 「ご家族と仲悪いんですか?」 「…………」 「寂しいんですね」 「違う」 「そうなんですね」 「その顔をやめろ」 「どの顔ですか?」 「全部だ」 「ええ……」 小雪が困った顔をする。 鷹司はさらに苛立ったように顔を背けた。 雪乃は二人を見て、眉を寄せる。 「小雪」 「なあに?」 「あの男にあんまり近づいちゃ駄目よ」 「どうして?」 「悪代官だから」 「本人の前で言うな」 蓮の声が飛ぶ。 「事実でしょう」 「……覚えていろ、雪乃」 「何を?」 「いつかその減らず口を――」 朔夜が蓮を見る。 蓮は言葉を止めた。 「……何だ」 「雪乃に触れるな」 「触れていない」 「ならいい」 「貴様とは本当に話が合わんな」 「合う必要がない」 雪乃はため息をついた。 「男って、どうしてこうなの」 小雪が小さく笑った。 「でも、お姉ちゃん」 「何?」 「黒羽さま、お姉ちゃんのことすごく好きだよね」 「またその話!?」 「だって」 小雪が朔夜を見る。 「百夜の呪いがあるのに、それでもお姉ちゃんを嫁にしたいんでしょう?」 雪乃も朔夜を見る。 朔夜は、少しも迷わなかった。 「ああ」 「……どうして?」 今度は雪乃が聞いた。 「恩返しだから?」 朔夜は首を横に振った。 雪乃の心臓が跳ねる。 「じゃあ、何?」 「昔から見ていたと言っただろう」 「あたしを?」 「ああ」 「それだけじゃ分からない」 朔夜はしばらく雪乃を見つめた。 「最初は恩を返すつもりだった」 静かな声。 「だが、おまえが妹を守るために花霞楼へ入ったと知った」 雪乃は黙る。 「客の前で笑っているところも見た」 「……見てたの?」 「ああ」 「嫌な趣味ね」 「そうかもしれん」 朔夜は気にした様子もない。 「それでも、おまえは誰かの悪口を言わなかった。小雪への金を欠かさなかった。自分のことは後回しにした」 「…………」 「いつの間にか、恩を返すだけでは足りなくなった」 雪乃の頬が熱くなる。 小雪が隣で、嬉しそうに姉を見る。 「朔夜」 「なんだ」 「それって……」 聞くのが怖い。 でも。 聞きたい。 「……あたしのこと、好きなの?」 朔夜は瞬きすらしなかった。 「好きだ」 雪乃の顔が一気に熱くなる。 「ちょっとは迷いなさいよ!」 「なぜだ」 「普通は照れたりするでしょう!」 「好きなものを好きと言って、何を照れる」 「そういうところよ!」 小雪が声を上げて笑った。 鷹司は呆れた顔をしている。 「馬鹿馬鹿しい」 だが雪乃には、もう蓮の声など聞こえていなかった。 朔夜を見つめる。 この男は。 千年を生きる九尾の妖狐。 自分が子どもの頃に助けた白狐。 百夜目には、自分を死なせるかもしれない男。 それなのに。 なぜだろう。 怖いはずなのに、胸の奥が熱い。 「……あたしは、まだ嫁になるって言ってないからね」 「ああ」 「勘違いしないで」 「していない」 「まず花霞楼を出るかどうかも、あたしが決める」 「そうしろ」 「小雪のこともあるし」 「ああ」 「それから……」 雪乃は言葉に詰まった。 朔夜が待っている。 急かさない。 「……あなたのことも、もっと知らないと決められない」 朔夜はわずかに目を細めた。 「では、知ればいい」 「簡単に言うわね」 「難しくする必要があるか?」 雪乃は笑った。 「本当に変な男」 「よく言われる」 「誰に?」 「おまえに」 「今しか言ってないでしょう!」 小雪がまた笑う。 その瞬間。 屋敷の外から、鐘の音が聞こえた。 雪乃は窓の外を見る。 日が傾き始めている。 「……戻らなきゃ」 小雪の顔が曇る。 「お姉ちゃん」 雪乃は妹の頭を撫でた。 「大丈夫。もう会えないわけじゃないでしょう?」 「うん」 「明日も来るから」 朔夜が口を開く。 「明日は花霞楼へ行く」 「何しに?」 「身請けの話を終わらせる」 雪乃の目が大きくなる。 「まだ決めてないって言ったでしょう!」 「だから、おまえも来い」 「……あたしも?」 「ああ」 朔夜は立ち上がった。 「自分の値段くらい、自分で聞いておけ」 雪乃は一瞬黙ったあと、笑った。 「それ、花魁に言う言葉?」 「事実だろう」 「ほんっと、色気がない!」 「必要か?」 「少しくらいは必要よ!」 「そうか」 朔夜は少し考える。 そして。 雪乃の耳元へ顔を寄せた。 近い。 金色の瞳が、すぐそばにある。 「なら」 低い声が落ちた。 「明日、おまえを迎えに行く」 雪乃の身体が固まる。 「……っ」 朔夜は何事もなかったように離れた。 「これでいいか」 雪乃は真っ赤になった。 「わざとでしょう!」 「何がだ」 「もう知らない!」 雪乃が背を向ける。 小雪が笑いを堪えている。 朔夜の表情は、最後まで変わらない。 ただ。 その白い袖の陰で。 雪乃には見えない一本の尾だけが、ゆっくりと揺れていた。 その夜。 花霞楼へ戻った雪乃は、女将から一枚の書付を渡された。 「……これは?」 「おまえの借金の証文だよ」 雪乃は目を見開いた。 「どうして、あたしに?」 女将の表情は険しい。 「明日、黒羽さまが来るんだろう」 「……はい」 「だったら、その前に知っておいたほうがいい」 雪乃は紙を開く。 そして、息を止めた。 借金の額。 これまで自分が返した金。 帳簿上なら、とっくに完済しているはずだった。 しかし、その下に。 雪乃の知らない文字が書き加えられていた。 追加借入。 保証人――鷹司蓮。 「……何、これ」 女将が低い声で言った。 「おまえはまだ、花霞楼を出られない」 雪乃の手が震える。 「鷹司さまが今日、証文を書き換えた」 「そんな……勝手に」 「できるんだよ」 女将は唇を噛んだ。 「この町では、あの男が法だからね」 雪乃は証文を握りしめた。 昼間の鷹司の顔が浮かぶ。 『迎えに行く』 あれは、小雪のことではなかった。 雪乃も。 最初から、逃がすつもりなどなかったのだ。 そのとき。 庭の向こうで、白い影が動いた。 一匹の狐。 金色の目。 雪乃が窓を開ける。 白狐はじっと彼女を見たあと、闇の中へ消えた。 雪乃は証文を胸元で握りしめる。 「……朔夜」 明日。 あの男が、自分を迎えに来る。百夜が始まった。朔夜の言葉を聞いても、雪乃にはすぐ意味が理解できなかった。左肩に浮かんだ白銀の紋様。雪の結晶にも、狐の尾にも見えるその印は、淡い光を放っている。「……消えない」雪乃は指先で触れようとした。「触るな」朔夜がその手を止める。いつもの淡々とした声。けれど、手に込められた力が少し強い。雪乃は朔夜を見た。「痛くはないよ」「今はな」「今は?」朔夜は答えなかった。「朔夜」「……朝になったら話す」「今聞きたい」「雪乃」「百日後に死ぬかもしれないって言われて、眠れると思う?」朔夜が黙る。雪乃は彼の手を振りほどかなかった。「隠さないで」「…………」「もう、あたしの人生なんだから」その言葉に、朔夜の目が僅かに動いた。やがて。「分かった」朔夜は雪乃の前に座った。「百夜の印が現れた者は、一夜ごとに妖の気を受ける」「妖の気?」「俺の力だ」「それが、あたしの身体に入ってくるってこと?」「ああ」「それで人間の身体が耐えられなくなる」「そうだ」雪乃は肩の印を見る。「じゃあ、百日経つ前に半妖になればいいんでしょう?」「それほど簡単ではない」「どうして?」「人としての身体が、妖の力を拒む」朔夜の声が低くなる。「過去の花嫁たちも、それで死んだ」雪乃は息を止めた。「……何人?」朔夜は答えない。「朔夜」「七人」雪乃の表情が固まる。「七人……」「俺だけの花嫁ではない」「え?」「黒羽の一族全体だ」雪乃は少しだけ息を吐いた。けれど。胸の中に生まれた違和感は消えなかった。「それでも……あなたも、花嫁を迎えたことがあるの?」沈黙。雪乃の胸がざわつく。自分でも驚いた。百夜の呪いより。その質問の答えを聞くほうが怖い。朔夜は首を横に振った。「ない」「……本当に?」「ああ」「じゃあ、あたしが初めて?」「そうだ」雪乃は思わず胸を撫で下ろした。そして。すぐに我に返る。「って、何安心してるのよ、あたし」「嫉妬か?」「違う!」「そうか」「ちょっとくらい否定させなさいよ!」朔夜の表情は変わらない。雪乃はむっとして、布団へ座り直した。「でも、変ね」「何がだ」「あなたは千年生きてるんでしょう?」「ああ」「その間、一度も好きな人がいなかったの?」「いなかった」
朔夜の指が、雪乃の頬に触れていた。ただ、それだけだった。なのに。雪乃は動けなかった。男に触れられることなど、珍しくもない。花霞楼では、それが仕事だった。手を握られる。肩を抱かれる。甘い言葉を囁かれる。相手が何を望んでいるのかを察し、それに応える。雪乃にとって、それは呼吸と同じくらい自然な仕事だった。けれど。今は違う。「……雪乃」朔夜が呼ぶ。低い声。それだけで、胸の奥が熱くなる。「何?」「嫌なら言え」雪乃は目を瞬いた。「……何が?」「触れられることだ」雪乃は少し笑った。「今さら?」「ああ」「花魁だった女に聞くこと?」朔夜の表情は変わらない。「花魁だったことは関係ない」「…………」「今ここにいるのは、俺の客ではないだろう」雪乃の胸が、ぎゅっと締めつけられた。朔夜の手が離れようとする。反射的に。雪乃はその手首を掴んだ。「……待って」朔夜が止まる。雪乃自身が、一番驚いていた。今まで。客の手を止めたいと思ったことはあっても。離れていく手を追ったことなどなかった。「どうした」「……分からない」「何が」「あたし、自分でも分からないの」雪乃は朔夜の手を握ったまま俯いた。「こういうとき、いつもなら分かるのよ」相手が欲しい言葉。欲しい表情。欲しい仕草。全部。「でも、朔夜の前だと……何をしたらいいのか分からない」「何もしなくていい」雪乃が顔を上げる。「え?」「おまえは俺を楽しませるためにいるわけじゃない」朔夜は淡々と言った。「笑いたくなければ笑わなくていい」「…………」「触れたくなければ、触れなくていい」雪乃の指が、朔夜の袖を握る。「じゃあ……」「なんだ」「触れたいときは?」朔夜の金色の瞳が、雪乃を見る。「触れればいい」「……簡単に言うのね」「難しいのか」「難しいわよ」雪乃は小さく笑った。「好きな男になんて、触れたことないもの」初めて口にした。好きな男。朔夜は驚きもしない。赤面もしない。ただ。「そうか」と言った。雪乃は眉を寄せる。「もうちょっと何かないの?」「何が欲しい」「知らない!」「困った女だな」「あなたにだけは言われたくない!」雪乃が睨む。朔夜はほんの少しだけ目を細めた。笑った。たぶん。それを見たら、余計に悔
翌朝。花霞楼は、いつもとは違うざわめきに包まれていた。遊女たちが廊下の隅に集まり、小声で話している。「黒羽さまがいらしたって」「雪乃姉さんを身請けするって、本当?」「でも鷹司さまが許さないって……」雪乃は鏡台の前で、黙って紅を引いていた。いつもと同じ化粧。いつもと同じ髪。いつもと同じ、花霞楼の雪乃。けれど。今日が最後になるかもしれない。鏡の中の自分を見つめる。「……最後、か」昨日までなら、そんなことを考えるだけで怖かった。花霞楼を出たら、自分に何が残るのだろう。男を楽しませる術。酒を注ぐ手つき。客が欲しい言葉を見抜く目。ここで身につけたものは、外の世界で何になるのだろう。けれど今は。不思議と、少しだけ楽しみだった。小雪がいる。そして。「……朔夜」名前を口にすると、胸の奥がほんの少し温かくなる。「何考えてるのよ、あたし」雪乃は自分の頬を軽く叩いた。今日は恋に浮かれている場合ではない。まず、自分の人生を取り戻す。そのための日だ。大広間には、すでに三人の男がいた。花霞楼の主人。鷹司蓮。そして黒羽朔夜。女将が雪乃を迎える。「来たね」「はい」雪乃は座敷へ入り、静かに座った。仕事中の一人称に戻す。「お待たせいたしました」鷹司が薄く笑った。「相変わらず、こういう席では完璧だな」「お褒めいただき、ありがとう存じます」「褒めてはいない」「まあ。残念でございます」鷹司の眉が動く。朔夜は何も言わない。ただ雪乃を見る。それだけで、なぜか落ち着いた。主人が咳払いをした。「では、雪乃の身請けについてですが……」鷹司が一枚の証文を畳へ置いた。「話すことなどない」昨日、雪乃が見せられたものだ。新たな借金。保証人、鷹司蓮。「この女には、まだこれだけの負債がある」朔夜は証文を一瞥した。「偽物だ」座敷が静まり返った。鷹司の目が細くなる。「何?」朔夜は懐から、別の帳簿を取り出した。「三年前からの入金記録だ」雪乃が目を見開く。「それ……」「小雪の家から回収した」帳簿を開く。雪乃が花霞楼から送り続けていた金。鷹司側へ渡った金。借金として差し引かれた額。すべて記録されている。朔夜が淡々と言った。「元金も利息も、とっくに払い終わっている」鷹司は鼻で笑った。「だか
「百夜目まで、生きた花嫁はいない」 鷹司蓮の言葉が、部屋に残った。 雪乃は朔夜を見つめた。 いつもと変わらない顔。 静かな金色の瞳。 だからこそ、怖かった。 「……朔夜」 返事はない。 「嘘だって言って」 小雪が雪乃の袖を握る。 朔夜は、ゆっくり目を伏せた。 「嘘ではない」 雪乃の胸が冷えた。 「じゃあ、本当なの?」 「ああ」 「九尾の妖狐に嫁いだ人間は、百日で死ぬ?」 「正確には違う」 鷹司が鼻で笑った。 「大差あるまい」 朔夜の視線が鷹司へ向く。 「黙れ」 声は低かった。 怒鳴ったわけではない。 それなのに、空気が凍ったように感じた。 鷹司も笑みを消す。 雪乃は立ち上がった。 「二人とも、あたしを置いて話を進めないで」 朔夜を見る。 「説明して」 「ああ」 「最初から全部」 「分かった」 朔夜は座り直した。 雪乃も、その正面へ座る。 小雪は姉の隣から離れなかった。 鷹司だけが柱に寄りかかり、腕を組んでいる。 朔夜が口を開いた。 「九尾の一族には、古い契りがある」 「契り?」 「人の女を伴侶として妖の領域へ迎えると、百夜の間に、その女の命が妖気に侵される」 雪乃は黙って聞いた。 「身体が耐えられなければ、百夜を迎える前に死ぬ」 小雪の指が、雪乃の袖を強く掴む。 「じゃあ……お姉ちゃんが黒羽さまと結婚したら……」 「必ず死ぬわけではない」 朔夜が言った。 「助かる方法はある」 鷹司が薄く笑う。 「成功した者はいないがな」 「鷹司さま!」 小雪が睨んだ。 蓮が眉を上げる。 「何だ」 「そんな言い方しなくてもいいじゃないですか」 「事実を言っただけだ」 「でも、お姉ちゃんが怖がるでしょう」 「怖いなら嫁がなければいい」 「それはそうですけど」 小雪は少し考えてから、 「……鷹司さまって、言い方が嫌な人ですね」 と言った。 「…………」 蓮の眉間に皺が寄る。 「おまえにだけは言われたくない」 「どうしてですか?」 「もういい」 「そうですか」 小雪は `( '꒳' )すんっ` と姉のほうを向いた。 蓮が何か言いたそうに口を開き、やめる。 雪乃はこんなときなのに、少しだけ笑いそうになった。 だが、すぐに朔夜へ視線を戻した。 「助かる
「お姉ちゃん、もう少し食べて」 「小雪こそ食べなさい。細すぎるわよ」 「お姉ちゃんだって!」 「私はいいの」 「よくない!」 小さな膳を挟み、雪乃と小雪は向かい合っていた。 再会してから、まだ一刻も経っていない。 それなのに雪乃は、小雪が何を食べているのか、夜は眠れているのか、着物は足りているのかと、聞きたいことが尽きなかった。 「本当に、困ってることはない?」 「ないよ」 「お金は?」 「黒羽さまが、取り返してくれたから」 小雪はそう言って、ちらりと朔夜を見る。 少し離れた場所で、朔夜は静かに茶を飲んでいた。 まるで姉妹のやり取りなど聞いていないような顔をしている。 雪乃は眉を寄せた。 「ねえ、朔夜」 「なんだ」 「あなた、小雪に何をしてくれたの?」 「必要なことをしただけだ」 「それじゃ分からないのよ」 小雪がくすりと笑った。 「黒羽さまね、怖そうだけど優しいよ」 「怖そうは余計だ」 「あ、ごめんなさい」 「別にいい」 雪乃は朔夜をじっと見た。 「……小雪には優しいのね」 「おまえの妹だからな」 「それだけ?」 「ああ」 あまりにも迷いなく答えるので、雪乃は少し拍子抜けした。 小雪は首を傾げる。 「黒羽さま、お姉ちゃんのこと本当に好きなんですね」 雪乃がむせた。 「ちょ、小雪!」 「だって、お姉ちゃんの話をするときだけ、少し声が優しいもん」 「そうなの?」 雪乃が朔夜を見る。 朔夜は平然としていた。 「知らん」 「知らんって何よ!」 「自分の声など聞かん」 「そういう話じゃないでしょ!」 小雪がまた笑う。 その笑顔を見て、雪乃の胸が緩んだ。 ああ。 この子が笑っている。 それだけでいい。 花霞楼で過ごした年月が無駄ではなかったと思える。 雪乃はそっと小雪の手を握った。 「……元気でいてくれて、本当によかった」 「お姉ちゃん」 「もう二度と、あんな男に近づかせないから」 小雪の表情が曇る。 「鷹司さま……?」 「そうよ」 雪乃の声が低くなった。 「借金は返し終わってたんでしょう。それなのに私の金を取って、小雪にまで手を出そうとするなんて」 「でも――」 「許さない」 雪乃はきっぱりと言った。 花魁として客の前にいるときとは違う。 姉として
雪が降っていた。まだ雪乃が幼かった頃。山道の奥から、か細い鳴き声が聞こえた。「……なに?」雪乃は足を止めた。家へ帰る途中だった。母には、暗くなる前に戻りなさいと言われていた。それでも、その声を無視することができなかった。木々の間を進む。そこで見つけたのは、一匹の白い狐だった。真っ白な毛並み。金色の瞳。そして、後ろ脚には鉄の罠が食い込んでいる。「かわいそう……」雪乃は狐のそばにしゃがみこんだ。狐が牙を剥く。「大丈夫。何もしないよ」もう一度、低く唸る。「怖いよね」雪乃は自分の羽織を脱いだ。「でも、このままだと死んじゃうよ」狐はじっと雪乃を見ていた。雪乃は震える指で、鉄の罠に手をかけた。硬い。子どもの力では簡単には開かない。何度も指を挟みそうになりながら、雪乃は必死に力を込めた。「……もうちょっとだから」ようやく罠が外れる。白狐は飛び退いた。その脚から、赤い血が雪へ落ちた。雪乃は羽織を裂き、狐の脚に巻いた。「これで少しはいいかな」狐は逃げなかった。ただ、金色の瞳で雪乃を見つめている。「もう、人間に捕まっちゃ駄目だよ」雪乃は笑った。「今度会ったら、ちゃんと逃げるんだからね」狐は一度だけ、雪乃の手に鼻先を寄せた。そして雪の中へ消えていった。それが、雪乃の記憶に残る白狐だった。「……あの狐が、朔夜?」翌朝。雪乃は布団の上で天井を見つめていた。眠れなかった。黒羽朔夜。白銀の髪。金色の瞳。言われてみれば、あの日の狐と同じ色だった。「いやいや……」雪乃は起き上がった。「狐が男になるわけないじゃない」口に出してから、昨夜見たものを思い出す。屏風に映った、白い尾。「……いや、なるの?」自分で問いかけても、答えてくれる者はいない。雪乃は頭を抱えた。花霞楼には、怪談好きの客も来る。狐が人に化ける話。狸が旅人を騙す話。山には人ならざる者が棲むという昔話。それを本気で信じたことなどなかった。なのに。朔夜だけは。「……人間じゃないっていうの?」襖の向こうから声がした。「雪乃姉さん。黒羽さまがお見えです」雪乃は顔を上げた。「また!?」昨日、明日来ると言っていた。確かに来るとは聞いていた。それでも早すぎる。「朝から何なのよ、あの男……」文句を言いながら、雪乃